広島漆再生プロジェクト委員会 掲載日:2013年10月22日
かつて広島にも漆文化が花咲いていました。江戸時代後期には既に高度な漆工芸技術が、広島にも確立されていたのです。安芸太田町那須には、「那須漆器」と呼ばれる漆器を作る職人集団と、漆の森を巡って漆掻きをする集団も存在していました。また浄土真宗安芸門徒の信仰心を現すものとして、寺院の内陣や各家庭の金仏檀を造る職人も、漆塗り職人を中心とする七職と呼ばれる職人集団として高い技術力を持っていました。さらに宮島細工や熊野筆にも漆の技術は生かされていました。
しかし、昭和20年の敗戦を境に、ものづくりの考え方が一変し漆文化は急速に衰えました。大量生産・大量消費の時代となり、ひとつひとつ手作りされる漆工芸品も漆工芸技術も時代遅れとして忘れさられ、それにたずさわる職人も激減しました。
現在、広島の漆文化は、危機的状況にあると言わざるをえません。実は百年前にも日本の漆文化そのものが危機的状況に陥ったことがありました。江戸から明治になり廃仏毀釈と神社統合の嵐が吹き荒れるなか、日本中の神社仏閣が取り壊され、仏像や工芸品が持ち去られ、その内の多くが海外に流失しました。その悲惨な状況を見て危機感を持ったのが、東京美術学校(現東京芸術大学)の初代学長岡倉天心でした。岡倉天心は、日本政府に対して「仏像を守ることは、そこに込められてきた、日本人の精神を守ることに繋がるのではないか。今日、これを顧みなければ取り返しのつかない事態に至るであろう。」と訴えました。そして、この岡倉天心の言葉を受けて、全国の神社仏閣を守る活動の先頭に立ったのが、東京美術学校で漆工芸を習っていた、広島出身の六角紫水でした。六角紫水は全国の神社仏閣をまわり、建物そのものはもとより、仏像や工芸品をひとつひとつ綿密に調査しました。そして、その多くを国宝に指定することによって破壊されたり海外に流出されることのないように、日本国政府に働きかけたのでした。特に、六角紫水が全精力を傾注し、破壊から復興へと導いた厳島神社と平泉中尊寺金堂は、今や世界文化遺産として世界の宝として認められるまでになりました。
つまり百年前、岡倉天心の先見性と六角紫水の行動力がなければ、日本の漆文化はすでに跡形もなく失われていたのです。
今こそ六角紫水の心を受け継いで、古の日本人が愛した、そして世界がその素晴らしさに感動した漆文化を、我々は再び取り戻さなければなりません。六角紫水が学んだ東京芸術大学の流れを受け継ぐ広島市立大学芸術学部漆工房では、数年前から安芸太田町にかろうじて残っていた漆の木から、新しい漆の苗木を育てる活動を、教員・学生・漆職人・漆工芸作家・地元住民が力を合わせて行なっています。これは、将来その漆の木から採れる広島産漆によって、広島漆文化の復興を目指すための息の長い地道な活動なのです。
広島漆再生プロジェクト委員会は、去年、岡山県と鳥取県の県境にある蒜山高原の漆実験林と、兵庫県姫路市の仏壇職人の展示会を見学。今年は、岡山県新見市の「漆の館」と、福山市の広島県立歴史博物館で草戸千軒遺跡の漆工芸品を見学。2年続けて蒜山高原の漆実験林の研究スタッフを迎えて、研修会を開催。去年の暮れには市立大学キャンパス内の法面を整地して、今春、漆の苗木を植樹しました。今年度内に、市立大学近隣の耕作放棄地(水田)600坪を整備して、漆の苗木を植樹予定しています。現在耕作放棄地での漆栽培へむけて、調査研究と実験を重ねています。
漆や漆工芸に関心のある方の参加を広く募集しています。
広島市立大学芸術学部漆工房 大塚研究室
TEL 082-830-1592
メール t-otsuka@art.hiroshima-cu.ac.jp |
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